土方歳三 銅像銘文  幕末新選組副長土方歳三義豊は土方義淳(注)の第四子として日野市石田に生る 生来聡明多感にして剣の道を天然理心流近藤邦武先生に学ぶ 文久三年幕府の 求めに應じて浪士組に参加将軍家茂公に従って上洛す 京都守護職松平容保公 の預かりとなり更めて近藤勇を頭に新選組を結成し自らは副長として市中見廻り警固 につとめ池田屋事件禁門の変等に勇名を轟かす 然し激動の時代こと志と違って賊軍 の汚名を被せられ鳥羽伏見の戦の後慶喜公に従って海路江戸に戻り以後勝沼宇都宮 会津と転戦し明治二年五月十一日函館戦争のさ中に戦死す 多摩の風土に育まれ 義に生き節に殉じた歳三の三十五年生涯は没後百数十年を経た今も男の美学として 廣く語り継がれている 先に明治九年高幡山第二十九世賢雅和上は境内に近藤・ 土方両雄の碑を建ててその殉節を顕彰するも更に此の度東京日野ロータリークラブ会員 一同はクラブ創立三十周年記念事業として弁天池々畔に出陣姿の土方歳三像を建立 しその事績を永く後世に伝えんとするものである 維時 平成七年十一月三日 高幡山金剛寺     中興第三十三世 祐勝 撰并書 発願 東京日野ロータリークラブ (注)多くの資料には歳三の父は「義諄」となっているが、この銅像銘文では「義淳」と書かれている。