少林寺拳法                   土方歳三
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調布支部
●土方歳三の生涯

 土方歳三義豊(よしとよ)は天保6年(1835)東京都日野市石田で土方義諄(よしあつ)の四男として生まれる。近藤勇の誠衛館道場に寄宿して師範代を務める。
 文久3年(1863)に将軍家茂の警護のために上洛、新選組を結成し、その副長として京都の治安維持に活躍。鳥羽伏見の戦い(1868)に敗れて江戸に戻り、甲陽鎮撫隊として甲州勝沼で政府軍と戦うも再び敗れる。
 下総流山で再起したが、近藤勇は降伏して板橋で斬首、土方歳三はなおも関東、会津に転戦、仙台から榎本艦隊と合流し、蝦夷地に渡り、函館政府の陸軍奉行並となる。
 しかし明治2年(1869)の政府軍の函館総攻撃にあって、弁天砲台に孤立した味方の救出のために函館市内に出撃し、5月11日午前10時頃に腹部に銃弾を受け戦死。享年35歳。法名「歳進院殿誠山義豊大居士」


●若き日の歳三
 幼い頃に両親を失った土方歳三は11歳で上野広小路の伊藤松坂屋に丁稚奉公に出されたが、1年と辛抱できずに逃げ出し、姉ノブの嫁ぎ先である日野宿佐藤彦五郎宅に居候となった。この佐藤彦五郎の家は日野宿本陣として現在も尚その面影を残している。そこから家伝の石田散薬を行商しながら、剣術道具一式を携えて行く先々の道場で他流試合をしながら修行を続けた。
 17歳のときに今度は江戸伝馬町の呉服屋に奉公に出されたが、色白で美少年だった歳三はそこの女中を妊娠させてしまい、また日野に逃げ帰ってきてしまう。やがて江戸誠衛館道場から出稽古に来ていた天然理心流4代目の近藤勇と肝胆相照らす仲となる。近藤勇は佐藤彦五郎と義兄弟の契を結ぶまでになった。歳三は勇に稽古をつけてもらい、安政6年(1859)、歳三25歳のころには江戸誠衛館で師範代を務めるまでになったという。


佐藤彦五郎

明治時代の佐藤家(本陣)

現在の本陣

本陣土間


●美男子の歳三
 「土方は役者のような男だった。髪がふさふさとしていて、眼がぱっちりして引き締まった顔」とは八木源之丞の息子為三郎老人の語ったところ(八木源之丞は歳三らが壬生で新選組の屯所を置いていた時の家主)。
 また日本で最初の新聞「江湖新聞」を創刊した福地源一郎(桜痴)は誠衛館時代の歳三の印象を「色も白ければ、撫肩の少し猫背がかってはいたが、身長はすらりとした、誠衛館道場の面々の中では男っぷりもよい方である上に、人との応対には抜け目なく、かつ如才なかった」と語り残している。


●局中法度
 新選組は身分経歴などにとらわれず、様々な人材を登用した。そのような「無頼の輩」を統率していくためには、鉄の掟がなければならない。それが局中法度である。この局中法度の起草者ははっきりわかっていないが、歳三だというのが専らの通説となっている。


●歳三の最期
 明治2年4月9日、乙部に上陸した新政府軍は、5月に入り、五稜郭と函館市街地を結ぶ地帯に旧幕府軍を追い詰めた。5月11日に歳三は約50名の手兵を率いて、孤立した弁天台場にいる味方兵の救出に向かったが、馬上指揮しているところ、銃弾が下腹部に命中して戦死したと言われている。
 戦死した場所には諸説あるが、函館市若松町一本木説が有力である。函館区史によると「一本木の前線を突破、栄国橋(異国橋)付近まで進出して奮戦、一本木に引き返したところ、突如流弾に胸を貫かれて倒れた」とある。
 歳三は戦死の数日前、京都依頼の従者であった市村鉄之助という16歳の少年隊士に自分の写真と毛髪、絶筆の和歌と愛刀(和泉守兼定)を託して、日野の佐藤彦五郎宅まで届けるよう命じた。市村は7月になって佐藤家を訪ね、歳三の遺品を無事届けることができた。市村はその後3年間佐藤家の食客となったが、故郷の大垣へ帰った。その後西南戦争で西郷軍に参加し、戦死したとのことである。

 歳三絶筆の和歌は
「たとひ身は 蝦夷の島根に朽ちるとも
魂は東の君やまもらん」
というもので、「東の君」とは将軍慶喜のことを指している。


●歳三の墓
 日野市石田にある石田寺(せきでんじ)には歳三の墓があり、香華が絶えない。
石田寺正面 本堂 向かって右側が歳三の墓
法名が書かれている

左側面

背面

記念碑

記念碑背面

土方歳三資料館
 土方歳三の生家は現在「土方歳三資料館」として遺品、資料などが公開されています。次のページでは資料館について少しだけ紹介することにいたします。


●歳三の像と顕彰碑
 歳三の菩提寺になる高幡不動尊(日野市高幡)に立つ歳三の像は平成7年11月3日、日野ロータリークラブ創立30周年を記念して建立された。(⇒銅像銘文

 当初地元有志の間で近藤勇、土方歳三、井上源三郎の銅像建立の話が持ち上がり、設計図もでき、資金の目処もついたところで、市の幹部より暴力団まがいのひとたちの像を建てるのは文化都市日野市にふさわしくないということで、計画は一時沙汰止みとなってしまった経緯がある。



 またこの高幡不動尊には近藤勇、土方歳三両雄を顕彰する碑が建っている。この顕彰碑発起が明治9年、実際に建立されたのがその12年後の明治21年である。

 明治2年歳三が函館で戦死し、戊辰戦争が終結した後も新政府の戦死者に対する扱いは苛烈で供養も侭ならない状態が5年以上も続いた。明治7年になってようやく新政府軍に刃向かった人たちの祭祀、慰霊が許されることになり、近藤・土方由縁の人たちの尽力により顕彰碑が建立されることとなった。しかし碑文は幕府への忠節を讃える顕彰碑であったため、碑が完成しても建設の許可が得られず、明治15年に改めて神奈川県令に申請し、明治21年にようやく建立された。
「殉節両雄之碑」全文


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