| ●近藤勇の墓 |
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| 三鷹市にある龍源寺は近藤勇の菩提寺で入り口横には石碑と胸像が、本堂裏には近藤勇の墓がある。(東京都三鷹市大沢6-3-11) 法名は「貫天院殿純義誠忠大居士」。 ここには近藤勇の甥で隊士だった宮川信吉のお墓もある。 | ||
実はこの龍源寺以外にもいくつか近藤勇の墓と伝承されているものがある。一般に近藤勇の墓とされているのは次の5箇所である。 1.龍源寺(東京都三鷹市大沢) 2.板橋駅前(東京都北区滝野川) 3.法蔵寺(愛知県岡崎市本宿町) 4.天寧寺(福島県会津若松市東山町) 5.円通寺(東京都荒川区南千住) |
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| ●近藤勇時世の句
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孤軍援絶作俘囚 孤軍援(たすけ)絶えて俘囚と作(な)る 顧念君恩涙更流 顧(かえりみ)て君恩を念(おも)えば涙更に流る 一片丹衷能殉節 一片の丹衷(たんちゅう)能(よ)く節に殉ず 睢陽千古是吾儔 睢陽(すいよう)千古是(これ)吾が儔(ともがら) 靡他今日復何言 他に靡(なび)き今日復(また)何をか言わん 取義捨生吾所尊 義を取り生を捨つるは吾が尊ぶ所 快受電光三尺剣 快く受けん電光三尺の剣 只将一死報君恩 只(ただ)将(まさ)に一死をもって君恩に報いん |
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| ●生家跡
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生家は昭和18年、調布飛行場の発着に邪魔になるとの軍部の命令で取り壊されてしまった。現在この敷地内には近藤勇産湯の井戸と近藤神社の小祠だけがひっそりとたたずんでいる。 |
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| ●天然理心流道場「撥雲館(はつうんかん)」跡
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| 豪農でありかつ篤農家でもあった近藤勇の父宮川久次郎(みやがわひさじろう)は、広い自分の屋敷内に寺子屋を開くとともに、幕末時盛んであった武術の一派「天然理心流」の道場を持って、勇とその兄たちをはじめ近在の子弟を集めて学問や武術を指導していた。 天然理心流は近藤長裕(ながみち)を初代とする流派で、江戸に道場を持つかたわら多摩地方に広く出稽古を行い、門弟の指導にあたっていた。小技よりも気迫を重んじ、いかなる相手にも動じない極意必勝の実践を大事にする武道であった。三代目近藤周助は、月に2,3回招かれて久次郎の道場に通っていたが、勇の度胸と技量を見込み、嘉永2年(1849年)近藤家の養子として迎えいれた。時に勇16歳、後28歳で4代目を襲名した。 この道場は、明治9年(1876年)に近藤家の養子となり、勇の一人娘瓊子(たまこ)と結婚して天然理心流5代目を継いだ近藤勇五郎(勇の長兄音五郎の次男)の道場で、勇五郎は多摩一円の門人3千人を指導したともいわれている。 勇五郎は明治9年に父から分け与えられた屋敷内の納屋を道場とした。この道場が「撥雲館」である。その名の由来は、ある時ここを訪れた山岡鉄舟(元幕臣。近藤たちが浪士組に参加して上洛したときの浪士組取締役)が命名し看板に揮毫したと伝えられている。「撥」という字は「とりのぞく」という意味を持っているが、「撥雲」という館名は暗雲を取り除くという意味で、当時の世相からみてうなずけるものがある。撥雲館はその後手狭になったため、門下生の協力で昭和7年(1932)北側空地に改築し、盛大な道場開きが行われた。しかし、勇五郎は翌年83歳で亡くなった。その後も道場は門人たちの手で維持され、昭和50年代まで稽古が続けられていた。 太平洋戦争が始まり、調布飛行場の建設に伴う勇五郎宅の取り壊しの際にも、門人たちの熱意によって、道場は勇五郎の娘の嫁ぎ先である東隣の峯岸家の土地に移築された。さらに戦後になって、人見街道の拡幅のため再移転する時、再び近藤家敷地内の現在地に移築され、今日に至っている。 |
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撥雲館 |
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| ●天然理心流
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| 近藤や土方、井上など新選組の源流となったのは、多摩の実戦的剣法、天然理心流にあるといわれています。ここでは天然理心流の系譜に少しだけ触れてみることにします。 |
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| ●土方歳三
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| 近藤勇とくれば、この人も忘れてはなりません。ご存知新選組副長土方歳三です。 次のページでは土方歳三についても少しご紹介いたします。 |
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