| ●天然理心流 |
||
| 天然理心流は寛政年間(1789-1800)に遠江(静岡県)の近藤内蔵之助長裕により創始され、三助、周助と受け継がれ、四代目の近藤勇が新選組局長として京都で活躍したことにより有名になった剣法である。その門人は多摩から相模一帯に広がり、多くの名人達人を輩出した。天然理心流の流名は「天に象り地に法り、以て剣理を究める」ことからといわれ、剣の稽古を通し天地自然の理を自身のものとすることを修行の目的としている。 天然理心流は香取神道流の流れを継いでおり、剣術、柔術、棒術、気合術を含む総合武術であり、古武道の系譜を継いでいる。その伝法は、 切紙 目録(序目録) 中極意目録 免許 印可 指南免許 の6段階となっている。入門より免許取得までは懸命に精進しても10年以上はかかったといい、指南免許までは更に10数年が必要であり、それも資質に恵まれた者がようやく到達できるという至難の道であった。門人の多くは切紙、目録どまりだったという。 天然理心流は真剣勝負を想定した実戦的な剣法であり、当時競技化した他の多くの流派からみれば異色の存在であったと思われる。多摩地方は将軍の直轄地であることから、古くから尚武の気運が高く、そのような土地柄がこの実戦剣法を生み出したのかもしれない。 天然理心流は、初代近藤内蔵之助長裕→二代近藤三助方昌→三代近藤周助邦武→四代近藤勇昌宣→五代近藤勇五郎信休→六代桜井金八義祐→七代近藤新吉正行→八代加藤伊助修勇へと継承され、現在は九代宮川清蔵勇武氏がその道統を継いでいる。(なお天然理心流についての詳しい情報は天然理心流公式サイトをご覧ください) ⇒天然理心流は田舎剣法? |
||
| ●初代近藤内蔵之助長裕(こんどうくらのすけながひろ)
|
||
| 天然理心流は近藤内蔵之助長裕が寛政年間に創始した流派である。『新選武術流祖録』(1843年)という本に「遠江の人也。刀術を好み、其の妙を得、天然理心流と号す」とある。香取神道流の開祖、飯篠長威斎の末胤であると称し、この神道流を学び、更に他の流派の長所を取り入れて天然理心流を興した。ある時近藤弥吉政竜というものと試合してこれを倒し、その姓を襲って近藤と称するようになったという。 内蔵之助は江戸に出てくると、両国薬研堀に道場を構え、多摩や相模地方に出稽古に歩いて門弟を集めていた。没年は文化4年(1807)10月16日で、墓は江東区北砂町の妙久寺にある。この他八王子市戸吹町の桂福寺、横浜市西区の勤行寺にも墓があるが、これらは門弟が後に立てた供養碑である。 |
||
| ●二代近藤三助方昌(こんどうさんすけみちまさ)
|
||
| 安永3年(1774)〜文政2年(1819)。八王子市戸吹村の名主坂本戸右衛門の長男として生まれる。20歳頃の入門といわれるが、忽ち頭角を現し、30歳頃には師匠の内蔵之助を凌いだといわれる。三助が34歳の時、内蔵之助はその死に際に気合術の奥義を三助に授けた。この気合術をかけられると、かけられた人は硬直状態になってしまい、身動きができなくなるという恐ろしい技であった。この術の特徴は離れていても自ら手を下さず、気合もろとも相手の気力を奪ってしまうもので、数人の相手に対しても術をかけることができたそうである。ある時三助はこの気合術で、訪れた家の庭石を鞭で気合もろとも真っ二つに割ってしまったため「石割三助」という異名を与えられたという。しかし残念なことに三助の急死により、この術は2代で絶えてしまった。 ⇒三助の気合術 2代目を継承した三助は戸吹村に道場を開き、多くの優れた剣士を育成し、また天然理心流の剣技の改良にも努めた。また三助の時代に天然理心流は多摩西部および南部(町田市)にその勢力を拡大していった。文政2年出稽古先の相原村で三助は急病により没する。三助の墓は八王子市戸吹町の桂福寺にある。 三助没後、天然理心流は次の3派に分かれている。 @増田蔵六を筆頭とし、八王子千人町に道場を構える一派 A初代内蔵之助の高弟小幡万兵衛の弟子筋にあたる桑原永助、漆原権左衛門の一派 B島崎(近藤)周助の一派(宗家) @の増田蔵六は千人同心の組頭を勤め、三助の門人の中でもその実力はナンバー1といわれていた。 Aは武士の系譜を継ぐ派で、門人には武士が多かった。地域的には江戸、厚木、藤沢に門弟が多かった。 B江戸と八王子を除いた多摩郡を地盤とし、名主クラスが多い。門弟の多さは他の2派を圧倒していた。 |
||
| ●三代近藤周助邦武(こんどうしゅうすけくにたけ)
|
||
| 寛政4年(1792)〜慶応3年(1867)10月28日。小山村の名主島崎休右衛門の3男として生まれる。幼名は関五郎、のちに周助と改め、文化8年(1811)20歳で近藤三助門下に入った。 周助は三助が没してから10年10ヶ月後の天保元年(1830)2月11日に、姓を島崎から近藤に改め、近藤三助の跡を継いだ。周助は天然理心流を積極的に多摩東部へ普及させていった。調布、府中、谷保、多摩市、日野市など甲州街道を中心として多くの豪農層の門人を獲得した。その中には後に新選組と深く関わることになる日野宿名主佐藤彦五郎俊正、小野路村名主小島鹿之助為政、上石原宿の宮川久次郎などもいた。剣技のほか周助は艶福家で、一生のうち妻を9人も変えたと言われている。また正妻の他に妾も何人か置いていたということでもある。 嘉永2年(1849)10月19日、周助は宮川久次郎の3男勝太を養子に迎えた。すなわち近藤勇である。そうして文久元年(1861)勇に天然理心流四代目を譲り、名も周斎と改め、悠々自適の楽隠居の身となった。 天気の日には浅草の寄席に軍談を聴きに行き、その帰りに蒲焼で一杯飲んで帰ってくるのを唯一の楽しみとしていた。周斎は高弟の佐藤彦五郎らの世話で不自由なく暮らし、慶応3年(1867)10月28火に76歳で世を去った。墓は港区芝公園の金地院にある。 |
||
| ●試衛館道場
|
||
| 試衛館道場はどこに作られたのかということについては、実は正確にはわかっていない。近藤周助は天保10年(1839)に道場を多摩郡小山村から江戸に移しているが、その所在地については不明な点がある。 子母沢寛は道場所在地を「小石川小日向柳町の坂の上にあった」と書き残しているが、この場所は伝通院の裏手で当時から寺ばかりであった。林栄太郎著「試衛館所在地の考察」には、 @牛込甲良屋敷地面内 A市谷加賀屋敷 B牛込天龍寺前二十騎組元御先手組大縄地御組屋敷 C牛込二十騎組屋敷 という4箇所がその候補に挙げられている。このうち柳町があるのは市谷である。またここからだと近藤勇の妻ツネの実家(松井八十五郎の家まで約2キロ、近藤周助が隠居したという四谷舟板横丁へは1.3キロの近さである。 |
||
⇒近藤勇の墓と生家 ⇒調布市について トップページ |支部長挨拶 | 少林寺拳法とは? | 調布支部沿革 | 入門案内 | 支部トピックス | 開祖語録 | 拳士職場紹介 | 調布市について | リンク集 | FAQ | 掲示板 | 支部連絡板 | |
アクセス解析&SEM/SEO講座&ブログ for オンラインショップ開業
| SEO | ギフト 花 | 掲示板 レンタルサーバー ブログ SEO | |