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調布支部
力のない正義は無力でしかない
◆力の裏付けのない正義は無力でしかない
 数年前「彼女が不良に連れていかれた」と本部に泣き込んできた学生がいた。チンピラに囲まれ、彼女を放って助けを求めにきたんですね。情けない奴だと思いつつ、すぐに駆けつけたが、相手は逃げた後でした。彼女は無事だったが、不良に囲まれ、恋人を置き去りにしていくような男は、私が彼女だったら二度とモノを言いたくない。自分がのばされても、その場からまず彼女を逃がす。あるいは二人で逃げる工夫をする。たとえ怖くても不利でも、そうするべきだ。なのに、そんなささやかな勇気、正義さえも発揮できない。どうですか、こうした現実。君らはどう考える。しょうがないで済ませるのか。チョイ脅されてブルっちゃうような、いざというときに役に立たない、上手に応用できないのが拳法だとしたら、少林寺って結局何なのかな。

 物事を判ったかのような顔をしている人たちの中には「殴られ、たとえ侮辱されても耐えるのが勇気であり、そうした人間こそ人間ができている。また、それこそが修養の成果である。」などという人がいる。が、違うな。そんな体裁のいい「修養」、私は認めないし、そうした奇麗事がまかり通ることで、日本人はますますダメになってきた。

 「力の裏付けのない正義は無力でしかない」と私は言い切ってきました。私自身が生きてきた中で得た体験的持論です。このことだけは引き下がれないと判断したときに、それが暴力的な抵抗であるのか、ガンジーのような無抵抗の抵抗であるのか、これは色々意見が分かれるでしょう。が、いずれにしても、どっちにもつかず、口先の奇麗事だけなら、そんなのは”ごまかしの正義”で、最もずるいし、卑怯です。「これこれは、こう正しい。これはこう間違っている」。この是非が問える、言える、また是非に沿って行動できる。たとえ理想論過ぎたとしても、君らだって人間としてそうありたいと思わないか。(1973年8月 指導者講習会より)



◆悪を断つ力を身につけよ
 「不正を憎む心情は万人共通のものであり、だからこそ、できることならば、自分も敢然と不正に立ち向かい、悪をこらしめたい、少なくとも降りかかる火の粉ぐらいは払いのけたいと、だれもが考えてはいる。最低、人にけいべつされたくない、バカにだけはされたくないという願望は、本能とさえいえるほど強烈で根深いものなのである。

 しかし、一方において人間は、弱い生きものである。そしてほとんどの人は、一人の人間としての弱さを、いやというほど知ってもいる。いままでに、どれだけ自分の弱さゆえに、目の前の人の難儀に対し、見て見ぬふりをしてきたことか。それどころか、わが身の受けた屈辱にさえ、どれだけ泣き寝入りを重ねてきたことか。

 こうして、人は満たされぬ思いをドラマに託して、自らをドラマの主人公に置きかえ、空想の中で代償行為にひたるのである。

〜中略〜

 私は、強くなりたいという人間の素朴な願いを大切にしたいと思う。弱いから、強くなるために少林寺拳法を修行したいという動機もよくわかる。むしろ、自分が強くなっていくのがわかるという過程のなかでこそ、私の考えているほんとうの意味での人づくりが可能であると信じ、少林寺拳法をそのための主たる手段と定めたのである。」  「少林寺拳法入門」(徳間書店)21-23頁より抜粋



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