少林寺拳法                    開祖語録
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調布支部
少林寺拳法は単なる武道やスポーツではない
◆単なる武道やスポーツではない
 少林寺拳法は単なる武道やスポーツではないと私は言い切っている。なぜかというと、スポーツというもの自体が、やっぱり相手に勝たなきゃいけない。勝つということは自分の相手をやっつけることです。相手が先輩であろうと後輩であろうと、とにかく自分が追い越されないように、相手を引き摺り下ろすことばかり考えるようになるのです。(1969年8月指導者講習会より)


◆スポーツは勝つことが目的になりやすい
 スポーツはルールを伴う勝負が中心になっている。そのため、ルールを重んじるフェアプレーの精神が養われるということは、スポーツの持つ徳目の一つである。だが、勝負がある以上、どうしても勝ちたいという人間の本性に根ざした強い要求は否定しがたいものがある。勿論勝負性の強い環境の中からでも、勝っておごらず負けてもくじけない真の強者が育つjこともあれば、友好第一、勝負第二に徹して、スポーツを楽しむ人たちもたくさんいる。

 しかし勝負はどうしても勝ちたいのが人情であり、勝ちさえすればよい、勝つためには手段を選ばないということになりがちであり、やがては自分以外はみんな敵という「己れしかない心」に行き着いてしまうこともしばしばなのである。スポーツが人間完成の手段となり得るためには、勝負にこだわる人間の弱さを克服できるかどうかにかかっているといえるのではないだろうか。(徳間書店「少林寺拳法入門」より)


◆武道とはなにか
 ルールを伴う勝負がスポーツならば、現今の武道のおおかたは、武道というよりスポーツと呼んだほうが正しいように思われる。現に武道もスポーツの一種であると考える人のほうがはるかに多く、各武道団体も多くは普及のため、争ってスポーツ化を図る状態にある。

 そもそも武道の「武」という文字は「二」「戈(ほこ)」「止」⇒二つの戈を止める、という会意文字なのである。つまり「両者間の争いを止める」ことが武の本義とされ、その技術が武術なのである。

 ところでこの武術そのものには善悪もなく、責任も罪もない。それを使う人の在り方、用い方次第で武器にもなれば凶器にもなる。巨大な武力の集団である軍隊でも、指揮者の考え方が狂うと大変な凶器になる。個人の武技でも、ゆすりや脅しの手段に使えば、これは立派な凶器である。武術を修めるものが心を養わなければならない理由はここにある。武の本義に従い、武術を正しく用いられる人間になるために自分自身を磨く道、それが真の武道というものなのである。 (徳間書店「少林寺拳法入門」より)



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