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| ◆JR高松駅 | |
| 四国の玄関口高松は面積375ku、人口42万人を擁する四国きっての大都市です。昔からターミナル式となっているこの駅は、現在近代的な駅舎と2004年に完成した高松シンボルタワーがそびえる清潔で明るい雰囲気を漂わせています。筆者が最後に高松駅を訪れた1987年は、予讃線、土讃線、高徳線などの発着駅として、ディーゼル機関車の独特の騒音と異臭が撒き散らされた、いかにも殺伐とした駅でした。 |
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| ◆讃岐富士(飯野山) | |
| 讃岐(今の香川県)には「讃岐七富士」と呼ばれる郷土富士があります。 ・讃岐富士(さぬきふじ) :飯野山、標高421.9m、丸亀市/坂出市境界 ・三木富士(みきふじ) :白山、標高202.7m、三木町 ・御厩富士(みやまふじ) :六ツ目山、標高317m、高松市 ・羽床富士(はゆかふじ) :堤山、標高201.6m、丸亀市/綾川町境界 ・綾上富士(あやかみふじ) :高鉢山、標高512.0m、綾川町 ・高瀬富士(たかせふじ) :爺神山(とかみやま)、標高約210m、三豊町 ・有明富士(ありあけふじ) :江甫草山(つくもやま)、標高153.1m、観音寺市 この中で一番有名なのが讃岐富士と呼ばれる飯野山でしょう。高松駅から多度津方面に向かうと程なく前方左手に特徴のある山が見えてきます。讃岐平野にぽっかり浮かび出たこの山が讃岐富士こと飯野山です。この飯野山は余りにも唐突に、平野の中にぽっかりと浮かび上がっているため、見る者に一種異様な印象を与えます。これは実は、飯野山が普通我々が見慣れている造山運動によって成立した山とは本質的に異なり、地質学上でビュート(Butte)と呼ばれるものに属するからなのです。 ビュートとは「平原に孤立する、周囲の切り立った丘」のことです。硬い岩の部分を残したまま、その周囲が浸食作用によって、削られてしまったことにより出来上がります。飯野山の山頂付近はサヌカイトと呼ばれる硬い安山岩に覆われ、周辺の柔らかい花崗岩が浸食された結果、今日のように平野に「ぽっかり」と浮かんだような形状となりました。 飯野山の整った美しい円錐形の姿は、いくつかの歌にも詠まれています。 ・「暁に 駒をとどめて 見渡せば 讃岐の富士に 雲ぞかかれる」 昭和天皇 ・「讃岐には これをば富士と いいの山 朝げ煙 たたぬ日はなし」 西行法師 ・「稲むしろあり 飯の山あり 昔今」 高浜虚子 ・「旅ゆけば 讃岐の国に 茶の香り 我が衣手に 雪は降りつつ」 藤原クリ太郎 |
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| ◆高松城 | |
| 高松城は、またの名を玉藻(たまも)城と呼ばれていますが、その由来は万葉集で柿本人麿が讃岐の国の枕詞に「玉藻よし」と詠んだことに因んで、このあたりの海が玉藻の浦と呼ばれていたこによるといわれています。 この城は、天正15年(1587年)に、豊臣秀吉から讃岐一国17万6千石を与えられ、国主として入府した生駒親正が、天正16年から香東郡野原庄と呼ばれていた現在地に築城に着手した平城(水城)です。縄張り(設計)は、当時築城の権威であった黒田孝高(くろだよしたか・如水)とも細川忠興(ただおき)ともいわれています。 数年の歳月を費やして完成し、高松城と名づけました。瀬戸内の海水を外堀、中堀、内堀に引き込んだこの城は、日本の三大水城のひとつと呼ばれています。城には、本丸を中心に時計廻りの方向に二の丸、三の丸、桜の馬場、西の丸が配され、三重の堀とともに堅固な構えとなっていました。 生駒氏の治世は4代54年間続きましたが、官営7年(1640年)に生駒騒動といわれる御家騒動により、讃岐一国を召し上げられて、出羽国(秋田県)矢島1万石に移されました。このあと、寛永19年(1642年)に当時常陸国(茨城県)下館藩主だった松平頼重が東讃岐12万石の城主として入城しました。頼重は徳川家康の孫で、有名な徳川光圀(水戸黄門)の兄にあたります。将軍家と近親の関係にあった頼重は中国・四国の監察役を命じられていたといわれています。頼重以降、松平氏の治世は11代228年間にわたり、高松は松平氏の居城として栄えました。 お城は、明治2年(1869年)の版籍奉還により廃城となり、一時、政府の所管となりましたが、明治23年(1890年)に城跡の一部が松平家に払い下げになり、昭和20年にには松平家から財団法人松平公益会に継承され、さらに昭和29年に高松市が譲り受けて、高松市立玉藻公園として昭和30年5月5日から一般に開放しました。現在の玉藻公園の面積は79.587u(約2万4千坪)で、往時の城域66万u(約20万坪)と比べると8分の1ほどの広さです。城跡には重要文化財の月見櫓、水手御門、渡櫓や艮(うしとら)櫓とともに石垣や堀などが残り、昭和30年3月2日に国の史跡に指定されています。また、高松城は彦根城と姉妹城縁組をしていますが、これは第11代藩主頼聰(よりとし)の奥方として、彦根藩主であった井伊直弼の次女千代姫が輿入れしている縁から、昭和41年に結ばれたものです。 |
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| ◆栗林公園 | |
| おおっ!くりばやし公園!・・・と読んではいけない。ご存知、栗林(りつりん)公園です。 本園の起こりは、元亀、天正の頃から当地の豪族であった佐藤氏によって、西南地区(小普陀付近)に築庭されたのに始まるといわれ、その後、寛永年間(1625年頃)讃岐領主生駒高俊公によって、南湖一帯が造園され、寛永19年(1642年)入封した松平頼重公(水戸光圀公の兄君)に引き継がれました。 以来5代松平頼恭公に至る100年余の間、歴代の藩主が修築を重ねて延享2年(1745年)に完成されたもので、明治維新に至るまで松平家11代228年間にわたり、下屋敷として使用されました。 明治4年(1871年)高松藩が廃され、新政府の所有となったが、明治8年(1875年)、県立公園として一般公開され、現在に至っています。 |
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| ◆鬼無 | |
| ◆琴平 | |
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